才能の違いからくる劣等感は実績でしか払拭できない
週報 05/24-05/30
才能の違い
私は学生のころは熱心にドラム演奏をしていて、途中まではほぼ独学でやっていたものだから教則本のたぐいはそれなりに読んできた。
今日はそんな本の中で「才能の違い」に関する考え方があったのを思い出したので書く。
Mastering Rudimentsに学ぶ
石川 直さんという本場アメリカのマーチングドラムで異例の実績を誇る方の「Mastering Rudiments」という本があるのだが、この中にいいことが書いてあったのを覚えている(誰かに貸して戻ってきてないだかで手元になく正確に引用できないのがもどかしいが)。
たとえば自分が1年やってようやくできるようになったことを2ヶ月でできてしまうような人がいるのを見ると、多くの人はそれを才能の違いだと感じてしまうが、そんなことにいちいち落ち込むのは無駄だ、ということが書いてあるのだ。
より具体的に、柔道でなにかしらの技を死ぬほど頑張って習得したというシチュエーションを考えよう。
自分が必死こいてようやく出来た技なのに、つい先日柔道をはじめたばかりの後輩はあっという間にできるようになったとする。こんなことがあれば、人によっては才能の違いを感じて絶望して選手であることをやめてしまうかもしれない。
しかし、だ。実はその後輩がもともとレスリングを何年もやっていたのだとしたらどうだろう。
技を成功させるのに必要な、本質的な体の動かし方だとか意識の向け方をたまたま自分は柔道を通じて身につけていたから時間がかかっただけで、後輩はレスリング時代にその部分を身につけていたのかもしれない。
つまるところ、生まれてからのバックグラウンドの違いが才能に見えているだけで、逆の立場になればその後輩が持っていない特質を自分が持っているというケースもままあるだろう。
であるからにして、兎にも角にも落ちこむような時間があるならしのごの言わずに練習せよ、というような内容だったと思う(あくまで大筋がこんな感じだったという記憶をもとに私がいま考えた例えであることをご了承いただきたい)。
結果を伴わなければ意味がない
しかし、この話は逆に言えば実績が出てはじめてそれが努力足りえるのだという側面もはらんでいる。
頑張って、頑張って、できないまま諦めたらそれは才能の違い以前に実績の違いなのだ。
才能がある人を見て悔しさを感じたら、その人を上回る実績を出すことでしか精神の救済はありえない。
されど勝てば官軍
仮に才能ある人が本気を出せば一瞬で追い抜かれる実績だったとしても、実績として実現しているということは非常に尊い。
まさに「勝てば官軍」で、どんなに才能がある人が「やればできる」可能性を秘めていようが、実現していなければ取らぬ狸の皮算用だ。 どんなに才能があろうが時間は有限なので「やればできるけど、やらない」の可能性は往々にしてある。
そう、才能がないと感じたら実績で超えるしかない。つ まり結果で勝負だ。
なぜなら結果のみが外から見えて、かつ自分がコントロールできるものだからである。コントロールできるものを心の拠り所にしなければ人の心は簡単に折れる。
努力のもろさ
上のようなことを書くと「努力は自分が頑張るだけなのだから十分にコントロール可能だ」という人がいるかもしれない。
しかし、努力そのものに価値を見出してしまうと、その努力の価値はアンコントローラブルとなる。
結果主義であれば(分かりやすく金額で測るのだとしよう)、どんな手段であろうと100万円稼げばそれは等しく100万円だ。
しかし、努力主義の場合、たとえばforループで済む処理を手作業で1万回書き下すという多大な「努力」をしたとしても、その行為の価値はforループを書ける人間の登場により一瞬で無に帰す。
とかく精神の安寧を「行為」に依拠することは危険なのだ。
先週との比較
ポエミーな文章を書いているが、分類上は週報なので進捗表をば。
今週はとにかく進捗が悪い。実績どころか努力もしていないとはこれいかに。
進捗表
前回からの変更部分は太字。個人的な優先度高い順にソートした表。 終わったものは消している。打消し線のあるものはリストの肥大化を防ぐために消す候補。
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