Poem

ここ半年で大きく人生も変わってきたので改めて自己分析をする

今を人生の節目にしたいという思いを込めて

半年ほど前の決意

今年(2020 年)の 3 月初頭、この Gatsby ブログを立ち上げる前にメインで運営していた WordPress ブログにこんな記事を投稿した。

その内容はといえば、今の会社に勤め続けることに意義を見出だせなくなり、人生を大きく方向転換しようと決意したという内容だった。

当時の振り返り(お気持ちだけの非生産的セクション)

当時を振り返ると、毎日を本当に無益に感じていた。 この先数十年同じような生活を続けるなど到底耐え難いと潜在意識が全力で拒否反応を示していたように思う。

絶望の初配属

思い返せば、新卒で入社し最初にプロパー配属されてからとにかく違和感の連続だった。何から何まで自分の価値観・主義・信条に合致しない。自分の奥底から拒絶が湧き上がらない日は 1 度たりとて訪れなかった。

まず、運が悪いことに私は初配属の部署で明らかに先輩と上司に恵まれなかった。それについて自分からは特に何も言っていないのに他部署の同期・先輩に揃って同情されたので、けっして私の思い込みではないだろう。いま改めて考えても、これまでの人生で出会ってきた中でこれほどまでに人格が未成熟な年上がいたことはなかったし、そうした人物が普通に同じコミュニティに存在していることが未だに信じられない。本当に果てしない感情を抱く毎日だったし、「自分はこのレベルの連中と同じステージにいる人間なのか」という絶望感を拭えなかった。

人事異動、だが絶望は終わらない

幸いにして人事異動があり、そうした人格破綻者と直接やり合う必要性はほどなくしてなくなったのだが、そもそも根本的に体質が合わない環境であるということは微塵も変化していない。必然的に自分の価値観を常に捻じ曲げて臨まなければけっして高い評価など得ようもない人生を続けていた。

製造業なのでつねづね効率化を謳ってはいるが、そもそもの人間の気質として効率化と程遠い人材が集まっている。それは内容の吟味を伴うことなく長時間労働こそが美徳だという価値観が深く根ざしていることや、企業規模を活かすことなく常に属人的な対応を迫る体制、社内政治により業務方針が頻繁に 180 度転換することなど、挙げていけば枚挙にいとまがない。

サラリーマンに向いている人たち

おそらくだが、こうした価値観にあまり違和感を抱かない人種というのはわりといて、彼らは私が拒絶感情を禁じえない場面でも彼らは強いストレスを伴うことなく受け入れているように見える。そうした人たちにとっては、今の職場は天国とは言わないまでも極めて安定した環境であろう。

給与水準は世間一般からすれば決して悪くはないし、大きなミスをしたとしても個人が賠償責任や降格処分を負うようなことは実質ない。あとは長時間労働に耐性さえあれば、一生不自由なく生活することができるし、まとまった退職金も手に入る。

結局、何が嫌だったのか

指が動くままに入力していたら、お気持ちを炸裂させた文章を書いてしまった。あまり生産的な行為とは言い難いので、もう少し踏み込んで今後の人生で二度とは同じ轍を踏まずに済むよう分析してみることにする。

いったい自分は何をもって嫌だと感じていたのか。そして、どうあったら嫌でなくなるのか。 このあたりを解き明かすことで、自分にとって心地よい環境・状況を得るための有益な判断基準が得られるだろう。

長時間労働自体が目的化していること

象徴的だったのは、入ったばかりで抱えている業務もなく、かといって安全の問題で工場を見て回ることも自由には出来ない新人に、とにかく残業を強いていたこと。作業を与えることもせず「なにか突発対応があるかもしれないから」という曖昧な理由で連日夜遅くまで事務所に拘束する。極めつけは、勤怠管理において暗黙の了解で勤務時間を「自主的に」控除するというルールだ。みな、月にして 40 時間程度を無条件に控除する。このような本質的でない同調圧力や明らかな労働基準法を逸脱した行為がはびこっており、私のなかの企業に対する信頼感はその時点で地に落ちた。本当に人の人生を冒涜しすぎている。私は、手段と目的を履き違えることなく、人間が尊重される環境に身を置きたい。

上司の気分ひとつで方針が変わること

とにかく、部下の人生・人格を冒涜することこそが人材育成だという価値観が強く根ざしている。なんというか、部下が嫌だと思うことを積極的にやらせ、忠誠心を試すというような行為がひたすらに行われている。正直に言って、工場さえ稼働していれば収益なんてそう大きくは変わらないのである。上司の気分を満足させるために、社内でしか使わないクソくだらない紙ペラ数枚に尋常でない時間を投資し、罵詈雑言で精神をすり減らしてもなんの意味もない。つまり、真の意味で付加価値がないから、歪んだ形で自己満足の付加価値もどきを生み出すラットレースを繰り広げているのだ。私は、肩書でしか担保されない人材価値にすがることなく、いつ解雇されたとしてもなんら問題なく自らの力で金銭を生み出す力を養いたい。

非効率なこと

これまで挙げた内容を総括してしまうような項目だが、とにかく「非効率」の一言に尽きる。私が考える大企業の強みとは、そのスケールを活かして業務を規格化し、属人的な対応を伴うことなく、組織的な仕組みづくりによって効率的に利益を生み出す構造である。今の職場にはそうした強みを感じることはない。一部の優秀な人間のマンパワーのみに負荷が偏重した構造であると言わざるを得ない。かといって、人事評価自体は大企業然とした横並び昇進で、ある程度年次が上がったらあとは決済者に気に入られるか運ゲーのような環境であるところもタチが悪い。極めて社会主義的で閉塞的だ。私は、個人のマンパワーがことさらに求められるのであれば、それを活かしやすい(自らの成果が大きく事業に反映される)規模のチームで活躍したい。そうでなければ、効率的でシステマチックな環境の中で、決められたアウトプットをより省コストで発揮する方向性で活躍したい。

ポジティブな観点では何を求めるか

上記は、ネガティブの裏返しから得た自分の思いだった。一方で、負のエネルギーだけではなく、より積極的な姿勢から生まれる欲求もあるはずだ。

ネガティブな感情を吐き出すだけでは世間によくいる単なる愚痴サラリーマンで終わってしまうので、攻めの姿勢で見たときの必要条件を洗い出していく。

極論、**状況を変えるには自分が圧倒的に変わることで今ある環境を好転させていくか、環境ごとチェンジしてしまうしかない。**自分の変化によって今の環境が変わるのを待つのは企業規模から考えても明らかな愚策であるので、やはり能動的にどう新しい環境に身を置くかということになると考える。

自らの性質・主義・信条に合致する環境であること

人間は、永遠に無理をし続けることは出来ない。無理や我慢をすることと、努力することは等価ではない。サッカー少年がプロになりたくて毎日サッカーの練習をする。ときには肉体的な苦しさや、なかなか上達しないことによる苦悩を味わうこともあるだろう。しかし、彼はサッカーが好きなのである。そういうことを言っている。つまり、アウトプットを出すことに全力を尽くすのは前提として、自分の信じられるものにコミットしたいのだ。(自分が心の底から意味がないと思いながら、ただ上司の言われるままにひたすらに資料を修正することは単なる無理や我慢であり、それはけっして努力ではない。) 物理的な側面のみに注目するならば、要求されるアウトプットに対して一定の職務遂行能力と忍耐力さえあれば、組織の一員として与えられた役割を全うすることはなんら不可能なことではない。しかし、無理をして、相手に忖度をし、自分の主義に反する内容のアウトプット延々と出し続けたとして、そこには持続性も精神の健全性もない。だからこそ、自分の心に嘘を付くことなく飽くなき努力と探求を発揮できる環境を望むのである。そのためには、その環境に根差す価値観が自分と合致していることがなにより重要だ。つまり、自然体の努力がナチュラルに評価される環境こそが不可欠の要素なのである。

プログラミングに関するものであること

人生、好きなものというのはそのときどきの興味によってある程度の移ろいを見せるものの、苦痛を感じないことや気付いたらいつもやっていることというのは、大きくは変化しないと思う。 人間の精神の健全性は、ポジティブな出来事の多寡にはそこまで依存しておらず、どちらかといえばたった 1 つのネガティブな出来事により容易に損ないうる。たとえば、すばらしい朝食を食べて天にも登るような多幸感を味わっていたとしても、通勤中に車に水たまりをはねられてびしょ濡れになったら天国から地獄に落ちたような気分を味わうだろう。つまり、嫌な気分になる可能性を減らすということは極めて重要なことがらなのである。 したがって、**「他の人は嫌だと感じるが自分は大したことに感じない(むしろ楽しめる)」**というような分野にこそ身を置くべきだ。これはよくよく自分の人生を思い返してみないと見つけにくいものだが、私の場合それがプログラミングだと捉えている。しかも、幸いなことにプログラミングは能動的な意味でも好きな物事であるから、まさにこの分野こそ自分に適した領域なのだろうと今は考えている。

本当はもっと違う主題があった

序盤に負の感情を爆発させてしまったことで本来書こうと思っていた内容に到達する前に長文になってしまった。書いているうちに日付もまたいでしまったので今日のところはこのあたりで筆を置こうと思う。

本当は、この半年で行動を起こすことを決意してから、何を学んできて、何が出来るようになって、人生の何が変わってきたのか、ということを簡単に取りまとめて、直近さらに変化のあった近況をさらっと書いて一種の自己紹介代わり的な記事に仕立て上げたかった。

普段の私は、記事を投稿するときには主題と見出しアウトラインを先に決めて、目標に近い字数にまとめて、というシステマチックなやり方で書く。今回は久々の投稿というのもあり、また日々思うことも増えてきたので筆(キーボードだが)に任せて書いたらこの有様というわけだ。

いつからだろうか「喋らせたら止まらないし、書けば文章はいくらでも湧いてくる」という人間になってしまった。言葉を無尽蔵に紡げることと、各々の言葉が有意義であるということが連関していないのが困ったポイントである。

本当に書きたかったことは、また次の機会に。