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聞き手のメタ認知を促す

当たり前だけど当たり前にできないこと

概要

「この人はおそらくこういう話がしたいんだろう」と聞き手がメタ認知できるように話し手が努力しないとならんよね、ということを書いている。

社内ブログ向けに書いたものだが、昼休みに多少の加筆修正をして作成した。

聞き手に前提知識は足りているか

業務でAPIM(Azure API Management)の「VNetサポート」について説明するとき、私の説明不十分から一発で理解してもらうことが出来ず、補足を必要とした。

私はこれまで〈冗長な説明をせず、要点を端的に伝えること〉に重点をおいてきたが、聞き手の前提知識なども踏まえたメタ認知への考慮がかなり大事だとあらためて感じた次第だ。

なんとなくの感覚だが、話し手が聞き手の前提知識やメタ認知の度合いを推し量るとき、人間の癖として認知のズレが生じやすそうに思う。
自分が思っているレベルから2段階くらい丁寧に説明することを考えた方がよさそうだ。

考慮不足の説明事例

最初に要点を絞ってした説明(※VNet統合については聞き手は確実に知っている状況)。

  • VNetサポートは、名前の似ているVNet統合とは違って、インスタンス自体がVNet内にいる
  • それとは別にAPIMへのエンドポイントを内部/外部で選択可能

これだけでは全く足りなかった。

質問が出て補足回答した内容

聞き手の質問意図をくみ取った結果の説明。

  • まず、APIM→バックエンドの話
    • VNet内にいる、つまりVNet内のみに公開されるAPIでもバックエンドに指定できる
    • VNet外にいる、つまり外部公開のAPIでないとバックエンドに指定できない
  • つぎに、利用者→APIMの話
    • エンドポイントが外部、つまりAPIMの利用者は閉域外にいてもよい
    • エンドポイントが内部、つまりAPIMの利用者は閉域内にいなければならない

so what? は丁寧に

冷静に見つめ直すと、〈つまり〉に続く部分は半ば自明のため〈冗長であり説明不要〉と考えていたが、そうではなかった。

「自分が自明に感じることでも、相手にとってそうではない」を今よりもっと突き詰めないと分かりやすい説明にならない。

おそらく、so what? はくどいくらい丁寧に言ってもよい。

今回なら、インスタンスが外にいたら閉域内には繋がらない、その事実自体を単体で聞くと当然に聞こえる。
だが単体として当然の内容でも、それが今話している内容からスムーズにつながるかは別。

それは聞き手の知識の問題ではなくて、話し手がメタ認知を導けていないことに起因する。
実際に、聞き手はネットワーク知識が不足しているわけでは決してなかった。

「で、結局は何が言いたいのだっけ?」
「で、私たちは何に気を付ければいいんだっけ?」

これを明示するかどうかの違い。

現在位置も丁寧に

そして、〈いまどこの話をしているのか〉も明確にしないと伝わりにくい。

  • 通信経路は「APIM→バックエンド」と「利用者→APIM」で大きく2つに分かれる
  • APIM→バックエンドでは「インスタンスがどこにいるか」が重要

どこまでが全体で、その中のどの部分の話をしているのか、これもくどいほど丁寧にする。

聞き手のメタ認知を促す

〈メタ認知〉という言葉が少しハイコンテクストだが、私はこれを〈国語のテストを解く能力〉のことだと思っている。

  • このときの登場人物の気持ちを答えなさい

メタ認知ができないと「そんなんわかるわけねーじゃん」となる。

一方でメタ認知ができていると、

  • ここでこの出題があるということは、どういうことか
  • 出題者は妥当なプロセスで答えを導出可能な記述を本文中に見出しているということだ
  • では、本文内容から一般的な観念をもとに導ける内容を考えよう
  • なるほど、出題者が聞きたいことはこれだ

のように視座を高めて客観的な見地に基づいて思考をすることができる。

このプロセスを聞き手の自発性に期待するのではなく、**話し手が、**作為的に聞き手を促すことが肝要だ。

聞き手の〈メタ認知〉を丁寧に導くのである。

聞き手が説明を聞きながら「あ、この人はこういうことが言いたいんだろうな」と分かるようにする。
分かりやすい布石を打って話していく。

これをよく耳にする言いまわしだと「聞き手の立場になって考えて話しなさい」となるだろう。

丁寧にしすぎることのデメリットはあるのか

丁寧にしすぎると、それは冗長であり・退屈であり・デメリットである

これは完全に間違っているわけではないし、一般的にそう考えられがちだと思う。

ただし、既知であるからといって、イコール冗長でもない。

これをうまく整理したくて色々と思索していたら、最近読んだ『1984年』の一節を思い出した。

あの本は彼を夢中にさせた、もっと正確にいえば彼に自信をあたえた。ある意味では、べつだん新たに教わる点はなかったけれど、そこがまた心を引かれるところでもあった。もし自分の散漫な考えを秩序立てられるとしたら、それこそ自分の言いたいことを書いてくれた本である。自分と同じ思想を持つ頭脳の産物であったが、自分のそれよりも迫力があり、体系立っていて、少しも恐怖心に打ちひしがれていない。最高の書物とは、読者に分りきっていることを語ったものだと彼は悟ったのである。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(pp.258-259)

既知であっても「散漫な考えを秩序立てられる」なら、それはよい説明なのである。

そして、「最高の書物とは、読者に分りきっていることを語ったもの」であり、それは口頭による説明であっても、本質は変わらないだろう。

「分りきった」ことは退屈ではないのだ。

説明の帰結が既知で・妥当だと思える・信じられる内容であることの価値はむしろ高いのである。

私は、冗長性の排除に躍起になりすぎて、既知の大切さを見失い、履き違えた説明をしてしまったということだろう。