management

コストを支払うべきは、書き手である

悪貨は良貨を駆逐する

自己辯護

以下は、書き手が常に読み手に伝わるように書き、それに伴うコストも書き手が背負うことを強く推奨する文章である。

しかし、直接的な批判を避けるため、あえて迂遠な言い回しを用いている部分もある。

恥ずべき自己矛盾が生じていることになるが、事前に申し述べておくことにしたい。

教育や啓蒙を標榜する覚悟

教育や啓蒙を標榜するのであれば、当人たちには確たる矜持があって然るべきだ。

本来、〈教える〉とは覚悟のいる行為であって、間違っても妥協を前提とするようではいけない。

例えば、ここにシャープペンシルの芯とコンセントがあり、目の前には小学生がいるとしよう。

無論、コンセントの両穴へ同時に芯を差し込むことの危険性は、少しばかり教養のある者なら誰しもが知っている。それゆえに、この状況での半端な〈教え〉は容易くも死を招くであろう。

これは、無知で好奇心の強い小学生が相手でなかったとしても、その本質は同じだ。不適切な情報伝達は常に悪影響をもたらす

不適切な教えによって、仮に何ら情報が伝わらなかったとしても、少なくとも時間は無駄にする

正しい内容が〈正しく伝わる〉ようにする必要がある。それは何かしらを説明する者の責務であると言えよう。

正しい伝達こそすべての根底

正しく伝えることは、情報伝達の基本だ。

そして、伝えられる者にとって、新規の・未知なる情報の割合が多いほど、丁寧な説明が必要だ。

そこにコストを割くことは当然の摂理であり、それを組織の窮屈さとして論じるのは全くもって次元が違うものを同列に並べる誤謬を犯している。

学校での授業だろうが、会社での打ち合わせだろうが、飲食店での注文だろうが、医院での問診だろうが、正しく情報が伝達されなければ、その行為、その時間、営み自体の意義が揺らぐのだ。

私は、他人に新たに伝えなければならないことを伝達するということを言っている。それは常にローコンテクストが前提だろう。

長年連れ立った夫婦が幾度となく繰り返したやり取りを阿吽の呼吸で意思疎通するのとはわけが違う。

新規の相手に向けて斯様なハイコンテクストを期待するのは甚だしい傲慢であり、履き違えだ。

それをして「情報伝達にコストを割くと組織の営みが窮屈になる」という理屈など成り立とうはずがない。

食事作法を説くのに、肝心な食事そのものを用意しないでどうするというのだろうか。

情報が正しく伝わることを担保しないまま、コミュニケーションコストをどう減じるか論じてはならない。

共同体では書き手がコストを支払うべき

正しく意思伝達がなされる土壌の醸成には、全員が適切なコストを支払うことが不可欠だ。

  • 「変数は1文字のほうがタイプ数が少なくて、速くコードが生産できる」
  • 「Gitを覚えるのはコストがかかるから、ローカルでのみ管理したほうがよい」
  • 「漢字は難しいからひらがなだけを使うべきだ」

上記の例を考えれば、表面上の、作成時のコスト削減だけを取り沙汰することの愚かさは火を見るより明らかだ。

書かれたあとに読む者が支払うコストを軽視してはいけないのだ。むしろ読み手のコストこそを削減するべきである。

なぜなら、読む者のほうが常に多いからだ。書く者が1人に対して、読む者は1人以上だからだ。

仮に、大人数が共同で作成していたとしても、他の共同作成者がすでに読み手であるからにして、書き手と読み手の量的関係が逆転することはない。

そのことを忘れてはならない。書き手が「自分は理解できる」と豪語するのは、もはや一種のトートロジーであり、愚だ。

そもそも、自分が理解できないものは書けないのだから「私は理解できる」という書き手の言葉には何ら意味がない。

覚悟に応じたコスト

たとえば、今どきの開発現場なら皆、Gitは使う。

仮に、超が付くほどのレガシー企業で、Gitを覚えるのに100年は優にかかりそうな人材しかいないのならば、Git導入を諦める選択肢もあり得るかもしれない。

けれども、これから開発の最先端を走ろうと標榜する組織がそんな戯言を言っていたとしたら、てんでお話にならないことには誰もが首肯せざるを得まい。

つまり、だ。

もしも教育や啓蒙を事業内容の一部としてでも標榜する組織であったならば、情報を読み手へ正しく効率的に伝えるための努力を軽視し、そのコストを支払うことを拒絶することなど許されるわけがないし、許されてほしくもない。

そんなことは、言うまでもない。

教える者の〈覚悟〉として、書き手のコストより、読み手のコストを意識すべきだ。

もはや分かりにくい資料、それ自体が悪であることは論を俟たない。

共同体の読み手としての義務

共同体ではほとんどの人間が、書き手でもあり、読み手でもある。

つまり、書き手として背負う義務は、おのずと読み手としても背負うのだ。

先程はGitの例を出した。たとえばもし、開発の最先端を標榜する組織の一員たる読み手としてgit rebaseが理解できないというのであれば、まずもって義務は果たしていないと言えるだろう。

Gitでなくともよい。自身をバックエンド開発のベテランとして自称するなら、計算量を度外視したコードを書くことは、大抵の場合に許されないだろう。

ここにいるならそれくらい当然知っているべき、という責務のみが、そうした矜持がもたらす連帯のみが、ハイコンテクストなコミュニケーションを許容する。

それは、その矜持を保つに然るべき環境が用意されてこそ成り立つであろう。

たとえば、Googleの優れたエンジニアならば、大抵のことは並のエンジニアよりはるかに高い水準でこなせるであろうし、それだけの能力や知識を前提にした意思疎通に晒されるだろう。矜持に応じた環境であるゆえに、それは当然のこととして処理される。

私はGoogleにいたことはないから正確なことは分からないが、ハイコンテクストが求められているといっても、それはおそらく妥当なハイコンテクストだろう。

どういうことかといえば、優れた組織において、聞き手にとって未知で・新規な情報の伝達は、むしろ普通の組織よりも丁寧ですらあり得るだろうということだ。

プログラミングというより物事が出来るようになる思考法では、無精せずに「理解に時間をかける」ことの大切さが説かれている。時間をかけて理解することで「コントロール出来ている感覚を得る」わけだ。

さすれば、こうした習慣をしっかりと身に付けた集団ならば、他者に対しても同じプロセスを前提にするだろう。すなわち、彼らがする情報伝達は、理解すべきことをしっかりと理解できるように伝達側も最大限の工夫を凝らしているであろう。

だからこそ、間違っても先に述べたような〈矜持の連帯〉がない相手に、教育対象たる読み手にコストを支払わせるのはご法度なのだ。

彼らは矜持を持たない代わりに対価を支払っているのである。それは顧客としてかもしれないし、仮に劣悪な環境にいる従業員ならば、その劣悪さに甘んじるという形で支払っている対価かもしれない。

どこだったか外国の警備員の話がある。

警備対象である宝石保管場所に何者かが立ち入ったかのような痕跡があった際にすら、「それだけの給与しかもらっていない」と軽く調べたのみで深く追求しなかったように(結局はそれが原因で盗難が成立したゆえに免職になったらしいが)、広義の読み手がどこまで書き手の意図を汲み取るかは矜持に応じた環境次第である。

つまり、仮に読み手に顧客を想定するならば、書き手が至れり尽くせりに理解を促す内容にするのは当然ということになる。

ダメなものにダメだと言う自由

話は少し逸れて、私は最近『1984年』という有名なディストピア小説を読んだ。

作中で、自由の本質を突いたかのようなセリフがある。

自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついている。

単純な事実を、あるがままに、そうだと表明する自由がなければ全ての根幹が崩れるのである。

『1984年』の世界では、二足す二は、五だ

主人公は、二足す二はどうしても四だと信じ、それを表明し、苛烈な拷問を受ける。

話を戻そう。つまり、ダメな資料は、ダメなのだ。

ダメな資料を、ダメだと言えなければ、根幹が崩れるのである。自由が脅かされているのだ。

資料は伝達するための媒体だ。つまり、伝わらなければ資料ではない。

そこに作成のコストなんて話はないのである。コストがいくらかかろうが、伝わらないものは資料ではない。

これを言えるのが自由の本質だ。人間としての尊厳だ。伝わって、初めて資料となるのである。

伝わらない資料は事実の改竄だ

話を再び小説に戻そう。

『1984年』の世界では、衆愚政治が敷かれており、ごく一部の支配階級以外には一切の自由がない。

あらゆる文献は、党の意向により好き放題に書き換えられている。

いたるところで思想警察が目を光らせており、人々は、思想を持つことを許されない。人々に意見がないため、今ある文献に記載されている内容こそが〈過去〉であり〈事実〉である。

歴史とは、記憶と文献との一致だ。しかし、自分の記憶と文献が違うことに異を唱える自由がない世界では、文献に書かれれば、それはもう事実に変貌するわけだ。

これを創作の中だけの突飛な話だと思っただろうか。しかし、よく考えてもみてほしい。

組織への新規参入者、つまり、その組織について過去の記憶を持たない者であればまったく同じことが言えないだろうか?

新規参入者が頼りにできるのは、その場にいる人間の〈説明〉と〈資料〉のみである。そのとき、それは〈事実〉になるのだ。

だからこそ書き手がコストを払わなくてはならないと言っている。

最初の書き手が正しく事実を描写しなければ、意図的かを問わず、それは事実の改竄であろう。

まさか、改竄を推進する者などいまい。改竄は、悪である。私が言っているのは、もはやコストの多寡ではない。善悪の問題なのだ。

だからもう一度言おう、書き手がコストを支払う必要がある